主な人物の略歴
真田幸隆 (1513〜1574年)
東信濃を古くから支配していた滋野三家の嫡流である海野棟綱の子、真田郷の小豪族真田頼昌の子
で海野棟綱の孫、あるいは棟綱の娘婿など諸説あるが、私は棟綱の娘と真田頼昌との子説を支持する
武田、諏訪、村上連合軍による海野平の合戦で海野嫡流が滅びた後、海野を名乗らず真田を名乗った
のもこのためと考える
海野平の合戦で敗れ上州の長野業正を頼る
武田信玄に臣従し砥石城を調略によって落とし、川中島の戦い、信玄の上野侵攻などに活躍し真田家
の基礎を築く
死んだ時身体には35ヶ所の疵があったという 如何に厳しい戦いの連続であったか
史料に出て来る名前は幸綱で、晩年に幸隆に改めたものであると考えられている 官位は弾正忠で
攻め弾正(鬼弾正とも)と言われた 隠居後は一徳斎と称す
長男が信綱、次男が昌輝(共に長篠の戦いで討死)、三男が昌幸で子に恵まれた
真田本城城址からの眺め すぐ手前が真田郷 砥石城が目前 右上方向が地蔵峠から松代への道
また、砥石城の上に薄く重なって見える山が遠くの東太郎山
左側が上田方面に、右下方向が菅平方面と鳥居峠から群馬県への道となる
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真田町長(オサ)の信綱寺 | 左から信綱夫人、信綱、昌輝の墓と言われている |
真田昌幸(安房守) (1547〜1611年)
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天文16年(1547年)、真田幸隆の三男として生まれる 従五位下安房守 幼名源五郎 法名長谷寺殿 7歳で武田氏への人質として信玄の奥近習衆(小姓)となり、間近に信玄の戦略、 治世を学ぶ 後甲斐の名族武藤家を継ぎ武藤喜兵衛と名乗る 武田勝頼の一才 年下であり竹馬の友であったと思われる 長篠の戦いで兄信綱と昌輝が相次いで討死したため、真田氏の家督を相続 上田城を築き、徳川の大軍を2度にわたり破り、知勇優れた戦国有数の謀将 として武名を高めた 関ヶ原の戦いで西軍側に付き敗れたため、高野山に配流され九度山で没す 左図 昌幸画像(上田市立博物館蔵) 文は「謀ハ帷幄ノ中ニ廻ラシ、勝事ヲ千里ノ外ニ決ス」と読める 信繁が絵師に描かせたと思われ、藩士の河野家に大切に保管されていたもので 故あって上田市立博物館に寄贈された、原本と見られる絵である 模写されたも のはかなりある |
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真田町長(オサ)の長谷寺山門 | 中央が幸隆、左が夫人、右が昌幸の墓 |
昌幸は高野山配流後も寺の維持を気に掛けて居り手紙が残っている |
真田信之(伊豆守) (1566〜1658年)
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信之画像(真田宝物館蔵) 長男信幸が源三郎であるが、当時は長幼の順と名前とは一致しない また長男に太郎などの名と付けると夭折するという迷信による等の 理由による ただし、これが幼名なのか 元服名かは不明 信幸の「信」は武田勝頼の嫡男信勝の信、「幸」は海野の伝統による |
真田昌幸の長男 幼名は源三郎 母は山之手殿(寒松院) 従五位下伊豆守 法名大鋒院殿
元服し信幸と名乗る 第一次上田合戦で活躍し勇名を馳せる
本多忠勝の娘と婚姻し徳川氏の与力大名となり、沼田城城主となる
関ヶ原の戦いでは昌幸と袂を分かち東軍側に付き昌幸の旧領を継ぎ上田藩主となる
名も幕府に遠慮し信之と改める 帝鑑間詰めの大名として譜代大名扱いであった
1622年に秀忠から松代藩(当初松城)に加増移封される
93歳の長寿を全うし、幕府からやっと隠居を許されたのは死の2年ほど前である
これは信之が戦国最後の生き残りとして幕府の相談などにも与り、諸大名に人気が
あったためと考える 決して幕府の意地悪ではないと思うが如何でしょう?
真田信繁(左衛門佐) (1567?〜1615年)
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真田昌幸の次男 幼名は源二郎または弁丸 従五位下左衛門佐 第一次上田合戦で上杉の支援を得るため景勝の人質となり 直江兼続にかわいがられる その後秀吉の小姓となり、大谷吉継の娘を妻にする 関ヶ原の戦いで父昌幸とともに西軍側に付き高野山に配流 大坂冬の陣では真田丸に立て籠もり活躍、夏の陣では家康 をもう一歩のところまで追い詰め、戦後「真田日本一の兵」 などと言われる 江戸時代初期に、小説や講談で幸村の名前が一般化してしまった 幸村の名前の由来は不明だが、「難波戦記」の創作と考えられている 当時は本名で呼ばず、官名で呼ばれるのが普通であり、名前ははっ きりしない場合が多いので、止むを得ない |
信繁画像 九度山で描か せた原本と思われる画像 (上田市立博物館蔵) |
大坂冬の陣のあと姉村松殿へ宛てた手紙が残っている 信繁の心境が良くわかる名文であり紹介 する 女性宛のひらがな文のため一部漢字に書き換えたが間違いがあったらお許し下さい 便り御座候まま一筆申し上げ候 さてもさても今度不慮の事にて御取り合い(合戦)に成申し、我々 ここ許へ参り申し候 奇怪とも御推量候べく候 但し先ず先ず相済み、我々も死に申さず候 御見参 にて申したく候 明日に変わり候はんは知らず候へとも、何事無く候 主膳殿(村松殿の子、真田藩 士徳川方に従軍)にも再々会い申し候へども、ここ許取り込み居申し候まま、心静かに申し承らず候 ここ許何事も無く候 御心安く候べく候 詳しく申したく候へども、この者急ぎ立ちながら申し入れ候ま ま、早々申し候重ねて申し入れ候べく候 かしこ 正月二十四日 さえもんのすけ むらまつへまいる 奇怪とも御推量候べく候と言って、真田藩に迷惑が及ぶことを遠慮した心境が伺える |
小松殿 (1573〜1620年)
本多忠勝の長女 幼名稲姫または於小亥(おねい) 法名大蓮院殿
天正17年頃信之に家康の養女として嫁ぎ小松殿と呼ばれる
小松殿の名前の由来は不明 屋敷か部屋の名前か、住居の周りに松が多かったからか
秀忠の養女と言う説(松代藩が幕府に提出した書類)もあるがこの時秀忠は10歳前後
であり、あり得ない
才色兼備の賢婦人として信之とともに真田藩の基礎を築いた(松代転封は没後だが)
晩年は江戸屋敷に住み、将軍秀忠とも昔話などし親しく付き合ったなどと思うが如何?
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小松殿画像 大英寺蔵 江戸時代後期の作か 甲冑には六文銭が、陣羽織には徳川家の三つ葉葵の紋が見える *葵はフタバアオイ(カンアオイの仲間)のことで、葵祭りで有名な 加茂神社の紋に由来する なお本多家の紋は「立ち葵」である *小松姫の名前が一般化してしまったが、正しく小松殿と呼びたい |
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小松殿の遺骸を上田城まで運んだとされる駕籠 上田市立博物館蔵 |
墓は埼玉県鴻巣市勝願寺(しょうがんじ)、沼田市正覚寺、上田市芳泉寺に、また松代の大英寺に霊廟が
ある
鴻巣の勝願寺に墓があるので、鴻巣で没したとされているが、同寺円誉不残上人に深く帰依していた関係
で次女が一周忌に分骨したもので、沼田まで帰り信之に最後の別れをしたと考えたい
本拠地の上田で葬儀が行われ、長く暮らした沼田に葬られた そして一周忌に上田と鴻巣に墓が建てられた
と考えるのが自然である
家康も円誉不残上人に深く帰依しており、勝願寺は将軍家との関係が深かった このため小松殿も帰依し
たものであり、秀忠との親交があった証拠と考える
真田信吉 (1593〜1634年)
真田信之の長男 母は小松殿、側室説などあり不明 従五位下河内守
大坂の陣では病気を理由に参戦しなかった信之に代わって、徳川方としてと信政と共に参戦
1617(元和3)年信之が居城を沼田から上田に移したため、沼田藩2代城主となる
真田信政 (1597〜1658年)
真田信之の次男 母は小松殿 従五位下内記
犬伏の別れの直後3才の時、江戸城へ人質として差し出され、家康に抱かれ泣き出したため、家康が腰の
吉光の短刀を与えた これが「泣き吉光」と言われ、重要書類と共に幕末まで大切に保管された
真田家が松代に移封された時、松代藩の一部を支藩として与えられ、初代埴科藩1万石の藩主となった
1639(寛永16)年に沼田4代城主 1657(明暦3)年父信之の隠居により、松代藩2代藩主となる この時
すでに61才で、半年後には死亡してしまい、家督騒動が起きる